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あのチームを振り返る その2 ~2003年福岡ダイエーホークス~

0. はじめに

 緊急事態宣言は5月末まで延長することになりましたね。最近の新たな感染者数は減ってきているものの、北海道では第二波が来ていますし油断はできません。個々人がウイルス対策を徹底して、GW後の正念場を乗り越えたいですね。今回は、過去のチームを振り返る記事の第二回で、歴代最高打率のダイハード打線を擁した2003年の福岡ダイエーホークスの記事になります。ダイエーというチームがどのように生まれ、受け継がれていったのかについても振り返ります。どうぞご一読を。

 

1. チーム概況

 まずは前回と同様に、福岡ダイエーホークスの2003年までの球団史を説明します。プロ野球球団としてのダイエーが誕生したのは、1988年のことでした。当時小売業界を席巻していたダイエーの創業者・中内㓛氏は1985年の阪神フィーバーを機にプロ野球事業に興味を持ち始め、球界に接触を試みます。1987年の暮れにロッテから球団身売りの話があり、交渉が進んでいましたが、合意寸前でロッテが身売りを取りやめたこともあり、最終的には同時期に球団身売りを考えていた南海との間で買収話を進めます。中内氏は当初、自身の育った神戸に建設されたグリーンスタジアム神戸神戸総合運動公園野球場)を本拠地とすることを望んでいましたが、福岡市市長との会談などで福岡の高い野球熱を知り、1989年のアジア太平洋博覧会の会場跡地にボールパークを作るという構想にも惹かれたことで、福岡移転に翻意します。そして1988年の11月、ついに「福岡ダイエーホークス」として誕生。ライオンズが去って10年、福岡の街に野球が帰ってきた瞬間でした。

 南海が1978年以降Bクラスに甘んじていたこともあり、ダイエーの球団としてのスタートは華々しいものではありませんでした。5年目となる1993年には日本初の開閉式ドーム球場として福岡ドームが誕生し本拠地として戦いますが、球場の広さに苦しみ最下位に終わり、16年連続シーズン負け越しとなりワースト記録を更新してしまいます。転機は同年から監督に就任した根本陸夫氏の招聘でした。あらゆる手法を利用して有力選手を集め、西武の黄金期の礎を築いた球界の寝業師ぶりはダイエーでも遺憾なく発揮されます。根本氏はこの年の秋からフロント業務も兼任し、オフには世紀のトレードによりチームの看板選手だった佐々木誠を放出し、西武から秋山幸二を獲得。さらにこの年から導入された逆指名制度を利用し、バルセロナ五輪代表でもあった小久保裕紀を獲得します。そして翌年オフ、監督を退任し巨人軍のスーパースターである王貞治氏を後任監督として招聘。これを足掛かりにドラフトでは駒澤大学進学が内定していた強肩強打の捕手・城島健司を強行指名、FAでは西武から工藤公康石毛宏典を獲得します。その後もドラフトで井口忠仁松中信彦柴原洋ら注目選手を次々と獲得したことでチーム力は着実に上がっていき、1999年に悲願の移転後初優勝・日本一を成し遂げます。根本氏は同年4月に72歳で亡くなっており、チームの檜舞台を目にすることは叶いませんでしたが、この優勝が彼の辣腕の賜物だったことは言うまでもありません。

 一方、好調だったチームとは対照的に、ダイエー本社の方は凋落の一途を辿っていました。バブルが崩壊したためです。これによる経営難と当時の球団社長による選手の冷遇により、1999年オフには初優勝時のエースだった工藤公康、2002年オフには生え抜きエース若田部健一らがチームを離れます。それでも根本氏の巧みなドラフト戦略で整えた選手に支えられたダイエーブランドは健在で、2002年のドラフトでは松坂世代和田毅新垣渚を自由獲得枠で指名。前年度指名した杉内俊哉と併せて、世代の注目投手を3人揃えます。翌年のオープン戦ではチームの主核選手である小久保裕紀が本塁生還時に右膝に大怪我を負い、長期離脱を余儀なくされてしまいますが、弱点としていた投手陣を補強して、二度目の日本一へ向けて戦力を揃えて迎えたのが2003年というシーズンでした。

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2. 状況別チーム成績

 それではまず、月ごとの各球団の貯金を見てみましょう。

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 6月までは近鉄と首位争いをしていましたが、後半戦も調子を維持して2位とのゲーム差を着々と離し、8月17日には36試合を残してマジック30が点灯します。その後8月の西武の調子が良かったことや、近鉄との残り試合が多かったことからマジックの点灯と消滅を繰り返しますが、9月1日に4度目のマジックが点灯してからは順調にマジックを減らし、投壊にやや苦しみながらも9月30日のロッテ戦(千葉マリン)で遂に優勝。3度目のリーグ優勝にして初の80勝以上、王監督自身としてもダイエーでの最高勝率を更新し、着実に強豪球団への道を歩んでいることを印象づけた優勝でした。

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 次は月別成績を見てみましょう。ここで「T打率」、「R/G」、「H/G」、「HR/G」、「RA/G」はそれぞれチーム打率、一試合あたりの得点数、一試合あたりの安打数、一試合あたりの本塁打数、一試合あたりの失点数を示しています。最も目につくのは7・8月の打率の高さでしょうか。6月下旬にズレータ選手が加入して、ダイハード打線が確立されてから8月下旬に村松選手が右鎖骨の骨折で離脱するまでにチーム打率を2分以上上げていることが、この時期の打線の破壊力を物語っています。この間に一試合30安打以上を2度記録し、チーム打率は8月3日には.300を超え、約一ヶ月の間3割台を維持しました。最終的なチーム打率.297は現在でも歴代最高記録であり、球史上最も繋がった打線の一つと言っていいでしょう。

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 対戦相手別の成績では、オリックス戦の驚異的な打率が目に入りますね。この年のオリックスは歴代ワーストの失点(927失点)・被安打(1534被安打)・防御率(5.95)の記録を作っていますが、その中でもダイエー戦だけで4度の20得点以上、歴代最多の一試合32安打など良いようにされ尽くされています。オリックスの歴史的な投壊に後押しされての成績であったこともこの年の特徴の一つです。

 この項の最後に、球場ごとの成績を見ていきます。以下の上の表がホーム試合、下の表がビジター試合の成績になっています。

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 近鉄相手に貯金を稼げなかったこともあり、大阪ドームでは負け越しています。ここでも目立つのは、オリックスの本拠地である神戸総合運動公園野球場(当時はYahoo! BBスタジアム)での得点力の高さでしょうか。12試合で平均10得点以上と打ちに打ちまくっています。当時のオリックスファンはしんどかったことでしょう。この球場だけでなく、広い本拠地福岡ドームの試合でも大量得点を何度も記録しており、球場によらない安定感があったこともこの年の打線の魅力です。

 

3. 個人成績

 最後に、個人成績を見ていきましょう。まずは、投手陣です。

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  投手陣は、生え抜きエースの若田部健一選手、2000年のリーグ優勝に貢献したラジオ選手、クローザーのペドラザ選手などが抜け、世代交代を迫られたシーズンでした。ここで、根本時代から続くドラフト戦略で集めた選手たちが一斉に能力を開花させます。右肩の怪我もあり燻っていた入団8年目の斉藤和巳選手は開幕投手に抜擢され勝利を挙げると、そのまま先発16連勝を記録するなどパ・リーグでは18年ぶりの20勝をマークし沢村賞を獲得します。これにルーキーの和田毅選手と新垣渚選手、そして二人と同世代の杉内俊哉選手が負けじと付いていき、この4人だけで52勝を挙げます。中継ぎ投手は後半戦から抑えに定着し、胴上げ投手にもなった篠原貴行選手以外はいまいち頼りない成績でしたが、安定したスタートを切れる若手投手が同時に4人も出てきた、新時代の到来を予感させるシーズンでした。

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 打撃陣は前述のように主砲の三塁手小久保裕紀選手を欠いての開幕でした。さらに主力遊撃手の鳥越裕介選手が怪我で出遅れ、内野守備の崩壊も懸念されますが、高卒4年目の川﨑宗則選手が台頭し、開幕からスタメンに定着します。その後は順調に勝ちを積み重ねていきますが、三塁も守れる新外国人のネルソン選手を試していたこともあり、6月上旬までは普通の良い打線という感じでした。しかし、6月下旬に大道典嘉選手に代わって途中加入のズレータ選手が指名打者に定着すると、得点力が一気に上がります。これによって上記のダイハード打線が完成し、打率を.280(6月24日)から2ヶ月弱で.303以上まで上げます。8月下旬に不動の一番打者だった村松有人選手が離脱したため、ダイハード打線の打順が成立した試合は20試合だけでしたが、この20試合のチーム打率は.366という驚異的なものでした。最終的には井口資仁選手・松中信彦選手・城島健司選手・バルデス選手の100打点カルテットに加え、これらの選手に村松選手・柴原洋選手を加えた6人が規定3割を達成するなど華々しい成績を収めたシーズンでした。

 

4. その後の動向

 日本シリーズでは同じく強靭なチーム力でセ・リーグを制覇した星野仙一監督率いる阪神タイガースと名勝負を繰り広げ、4勝3敗で日本一に輝きます。11月2日には優勝パレードが行われますが、ファンの喜びも束の間、翌日にこの年怪我で居なかった小久保選手の巨人への無償トレードが発表されます。前出の球団社長との齟齬が主な原因でしたが、これもダイエー本社の経営難の煽りを受けての出来事だったと言えるかもしれません。これによって小久保選手を加えた打線の実現は幻に終わり、チームは瓦解し始めます。同年には村松選手もFA宣言してオリックスに移籍し、翌2004年には井口選手がMLBに移籍、バルデス選手は退団になります。一方、この年にプロ野球再編問題が持ち上がり、近鉄オリックスの合併に続き、1リーグ制実現のためダイエーとロッテの合併が画策された時期もありましたが、前年度にドームを売却したコロニー・キャピタル社との契約があったダイエーは合併を拒み続けます。その後、選手会によるストライキを受けて球界が12球団制の維持へ向けて動き始めた10月、ソフトバンク孫正義社長が球団買収に名乗りを上げ、11月30日に正式に売却が決定。ダイエー球団は16年の歴史に幕を閉じます。この球団譲渡により完全な空中分解を免れたホークスは、常勝球団としてのイメージを維持し、ソフトバンクの豊富な資金力も味方につけて長い黄金時代を築き上げていくことになるのです。現在のパ・リーグは地元密着路線が功を奏し、どの球団もファンが増えましたが、その先陣を切ったのがダイエーという球団であったと言っていいでしょう。

 

 5. 終わりに

 以上、2003年の福岡ダイエーホークスについての記事でした。この時期のホークスはスター選手だらけで魅力的ですね。一方で、指導者としては黄金期西武や野村ヤクルトほどの活躍はされていないように思えるので、今後はもっと球団の枠を超えて活躍する姿を見たいです。この時代を過ごした選手たちの考え方は、NPBの未来のために必要なはずです。

 更新ペースは遅いですが、こんな感じで続けていきたいと思います。KBOも無観客とはいえ始まりましたし、日本も早くウイルスが終息して野球が見られるようになることを祈るばかりです。それではまた。

 

6. 参考サイト

日本プロ野球記録

2003年 福岡ダイエーホークス - スタメンデータベース